世界流離日記

『世界流離(さすらい)日記』と読みます。海外旅行での喜怒哀楽の経験を中心に投稿していきますのでよろしくお願いします。

#082 サラエボで戦場跡地を巡ってみた。 (2011.8)

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サラエボ(Sarajevo)はボスニア・ヘルツェゴビナの首都です。この地では、2つの大きな戦争が勃発し、戦地となりました。1つ目は1914年に始まった第一次世界大戦サラエボ事件がきっかけで世界大戦にまで拡大してしまいました。2つ目は1992~1995年のボスニア内戦。中学生だった私は当時その惨状を全く理解していませんでしたが、それでもサラエボから中継です」という言葉をニュースでしょっちゅう耳にしたことは覚えています。なお、そのサラエボからの中継地だった場所がこの写真のホリデイインホテルです。

 

 

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このブログで2011年夏のクロアチア旅行について時々書いていますが、実はザグレブに着いてすぐにサラエボに夜行バス(約200kn)で移動しました。バスターミナルでバスを待っていると、見知らぬ人に「なんでサラエボなんかに行くんだ?」と不思議がられました。理由は単にクロアチアから近いから行ってみただけなのですが、内戦の跡地を見てみたいという思いも正直ありました。うまく言えないのですが、とにかく「楽しかったー!」だけの旅で終わらせたくなくて、戦争などの負の歴史から目を背けてはいけないと思ったからです。仕事柄、子どもたちにも見せたいと思いました。

 

 

元々、クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナも、同じ国でした。それが、今は無きユーゴスラビア連邦です。

 

 

『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』と呼ばれていたほど、多民族・多宗教の国家でした。1991年から次々とユーゴスラビアから独立し、今では地図上にユーゴスラビアという国は存在せず(国連でのマケドニアの正式名称として「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」は残っているようですが…。)、スロヴェニアマケドニアクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナセルビアモンテネグロコソボの7つの国家(※コソボの独立を認めていない国もありますが、日本は独立承認国です。K氏によると、日本人は独立を認めているからビザなしでコソボに入国できるそうです。)にそれぞれ独立しています。サッカーがさかんな地域なので、日本で大活躍したピクシーことストイコビッチセルビア出身、現日本代表監督のハリルホジッチボスニア・ヘルツェゴビナ出身です。

 

 

スロヴェニアマケドニアの独立ではそこまで血が流れなかったようですが、クロアチアボスニア・ヘルツェゴビナでは多くの死傷者が出ました。特に、ボスニア内戦では、1992年から1995年の約3年半で20万人の死者と200万人の難民が出たそうです。

クロアチア紛争 - Wikipedia

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 - Wikipedia

 

 

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私がサラエボを訪れたのは2011年で、ボスニア内戦終戦から15年ほど経っていた頃でした。それでも、バスの中から見たサラエボの景色には、恐らく内戦で破壊された廃屋の姿がありました。

 

 

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22:00にザグレブを出発し、翌朝6:00頃にサラエボのバスターミナルに到着しました。ロッカーに大きい荷物を預けて、バスで一緒だった韓国人Jadeと一緒に廻りました。彼女とは年齢が一緒だったこともあり、すぐに仲良くなりました。

 

 

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サラエボ中央駅でトラムに乗り、中心部に向かうことにしました。旧社会主義国によくある、無機質な建物が並んでいました。

 

 

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新しいようで少し年季の入ったトラムがやって来ました。MIKADOと書かれた広告が気になります。チョコレートのようですが。帝?笑

 

 

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トラムは先ほど少し触れたホリディインの前を通りました。内戦当時、記者たちは皆このホテルに宿泊していたそうです。ホテルの前の大通りはスナイパー通りと呼ばれているのですが、これはボスニア内戦の頃、ここを通る者は全て(動物さえも)撃たれたことから来ているそう。よーく見ると、今でも銃弾の跡があるのがわかります。ここから当時命がけの中継が行われていたのですね。

 

 

 

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ボスニア・ヘルツェゴビナの主な宗教はイスラムなのですが、モスク以外にもカトリックセルビア正教(画像2枚目)の教会やユダヤ教シナゴーグが徒歩圏内に集まっていました。旧ユーゴ内でも地域によってメジャー宗教が異なっていたからこそ独立運動が起こったのかなぁ、とも思ってみたり。そう思うと、多宗教でも国がちゃんと成り立ち、お互いを認め合っているインドってすごいなぁ、と改めて思います。

 

 

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トラムを降りると、もうサラエボ中心部でした。ミリャツカ川沿いを歩くと…。

 

 

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橋、発見。これが有名な『ラテン橋』です。何で有名なのかというと…。

 

 

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この場所が、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件の現場(※正確には、橋を渡った北側にある、この石碑付近が事件現場)だからです。1914年6月28日にここでオーストリア皇太子夫妻が暗殺され、最終的には世界中を巻き込んだ第一次世界大戦が勃発してしまいました。戦争のきっかけというのは本当に些細なことだったりします。当時も、まさかこの暗殺事件から世界戦争になるだなんて、予想していなかったことでしょう。

 

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このラテン橋も内戦で破壊されたので、現在架けられているのは2004年に再建されたものだそうです。大理石で作られています。 

 

 

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ラテン橋を渡って北側を歩いてみると、新市街がありました。古いものもありますが、大半はとても綺麗です。綺麗ということは内戦で破壊され、再建された街並なのではないかと思ってしまいます。

 

 

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至る所に銃弾の跡が残っています。サラエボ市民は内戦中の3年半をどれだけの恐怖や悲しみを抱えながら生活をしていたんだろうか…。

 

 

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有名な『ツァレヴァ・モスク』の手前にも内戦の爪痕が残っていました。

 

 

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時々、名前の書かれたプレートやお墓を見かけました。作成された年を見ると、内戦中に亡くなった方のものであることがわかります。

 

 

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大戦の犠牲者を偲ぶ永遠の炎(Vječna vatra)サラエボ五輪の時から現在も絶やさずに灯され続けています。それでも、内戦中は燃料不足のため消えていたとのことなので、サラエボの平和のシンボルだと私は思っています。

 

 

1984年に社会主義国初の冬季オリンピックが開催されました。それがサラエボ五輪です。サラエボにはそれを記念した五輪博物館があるので、行ってみることにしました。

 

 

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中心部から離れてるのでタクシーに乗って向かいました。途中で野良犬の集団に遭遇。 

 

 

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こちらが五輪博物館です。すぐ近くにスタジアムもあります。

 

 

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近年のものから東京五輪のものまで、歴代オリンピックのポスターがズラリ。 

 

 

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内戦前のオリンピックなので、当時のサラエボは『ユーゴスラビア』の一都市でした。マスコットキャラクターの『ブチコ(Vučko)』は、ユーゴに生息しているとされた幻のオオカミがモチーフになっているのだそう。

 

 

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すぐ隣ではサッカーをやっている学生らしきグループがいました。

 

 

しかし、この後私は衝撃の光景を目のあたりにします。私の眼前に無数に現れたのは、どこまでも続く、悲しき内戦の産物でした。

 

 

 

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それは内戦の被害者の方々の墓地でした。内戦中にお墓を作る土地が不足し、やむなくオリンピックの補助グラウンドを墓地に充てたそうです。当然ながら、お墓に刻まれている亡くなられた日は1992~95年に集中しており、ここで内戦が起き、多くの被害者が出たことを改めて肌で感じた瞬間でした。思わず感涙。どうぞ安らかに。

 

 

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そんな中、一本の木を見つけました。石碑に『桜』という漢字が刻まれていました。日本のボランティア団体が2002年に植樹したもののようです。戦争の過去は消えませんが、この桜の木が大きく咲き誇る頃には世界が平和で溢れていることを願うばかりです。 

 

 

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なお、サラエボにはJAPANと書かれた路線バスが走っていました。日本の中古バスがサラエボ新たな人生を歩み、今日も市民を乗せて走っています。

 

 

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五輪スタジアムから戻って来てから、再度トラムに乗っていたら、パンッ!! という轟音が車内に響き渡りました。銃声か?地雷か?と怯えていたら、ただのタイヤのパンクでした。笑 

 

 

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自分で選んだとは言え、元戦地を見ていると食欲が全く湧かないのですが、とりあえず昼食を取りました。チェヴァプチチ(ćevapčići)と呼ばれる料理です。味付けや食材がやはりイスラム国家なんだなぁと感じる味でした。中のお肉がジューシーでおいしかったです。トルコのキョフテみたいな感じ。 

 

 

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私は8時間ほどのサラエボ滞在の後、モスタルというボスニア・ヘルツェゴビナの都市にバスで向かいました。(18KM(マルカ)≒990円)

ここでJadeとお別れ。彼女はサラエボに数泊した後にセルビアに行くようです。

 

 

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モスタルへの道は山越えが中心でした。14:30にサラエボを出発し、モスタル到着は17:00到着予定。

 

 

サラエボを出てしばらく経つけど、今何時だろ?携帯で確認しよっと。えーっと、携帯はどこだっけ?(ごそごそ) 

 

 

 

あれ? あれれ??

 

 

 

け、携帯がない。

 

 

どこを探しても私の携帯はありませんでした。サラエボに着いてからの記憶を反芻すると、「永遠の炎」は携帯のカメラで撮影したことが判明。そこから一度も使っていないはず。

 

 

結局見つからないためいまだに原因不明ですが、可能性としては

①『永遠の炎』の後、街中で落としたor盗まれた

②タクシーの中に置いてきた

のどちらかだと思われます。ガラケーではあるものの、以降の道中で待受画面にしたいような絶景を携帯で撮影できなかったのが悲しかったです。

 

 

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サラエボには、今もなお内戦の爪痕が残り、街を歩くと心が痛みます。ただ、戦争を知らない私たちが戦争の悲惨さを知るには実際に目で見てそれぞれ感じることが大切なのではないかと私は考えているので、行ってよかったと思います。

 

この後、モスタルでも内戦跡地を訪れたので、また書こうと思っています。