#089 インレー湖で僧侶と触れ合ってみた。 (2015.12)
インレー湖(Lake Inle)は南北22km、東西12kmにもわたる淡水湖で、バガンからバスで10時間ほどで到着する観光地です。湖上には水上村があり、水上生活をしています。
このミャンマー旅行は当初バガンにだけ行くつもりでした。が、職場の元バックパッカーY先輩に「ミャンマーに行くならインレーは絶対に行くべき!パガンだけなんてもったいないよ。湖で水上生活をしている人がいるから。バンコクの水上マーケットとは全然違うよ。」と言われました。
ということで、ただでさえ出発1週間前に航空券を取った私でしたが、急きょルートを改め、ヤンゴン→バガン→インレー→ヤンゴンに変更しました。ただでされ弾丸旅行なのに、インレーを追加したため超弾丸旅行になりましたが、結果として大満足。行ってよかったです。Y先輩、感謝です!
バガン→インレーまではこの夜行バス(18500K)を使いました。私はVIPバスを利用しましたが、VIPじゃないインレー行きのバスもありましたよ。なお、元・阪神バスでした。笑
※1K(チャット)=0.1円
午前4時過ぎにインレー湖近くのニャウンシュエ・バスターミナルに到着。乗り合いタクシー(ソンテウ)で宿まで連れて行ってもらいました。なお、バガンでもそうでしたが、インレー湖に入る前にも入域料を$10払わなければいけません。
ミャウンシュエの宿がこちら。シンヨーゲストハウス(Sin Yaw GH)です。1泊23000Kで、南国風のレセプションも、鳥柄の天井もかわいらしい。5時前に到着しましたが、チェックインさせてもらえました。シャワーを浴びて、少し寝てから外に出ました。
朝食を宿近くの食堂で食べました。確か1000K。インドのチャンミンみたいな、やさしい味の焼きそばでした。
宿から徒歩5分位のところにあるボート乗り場に行き、ボートツアーの申込みをしようとしたら、午前の部は満席とのことで、正午出発のツアーなら空いているとのこと。ボートは1隻15000Kで5人乗りなので、他の4人のメンバーを集めて一人3000Kで乗れることになりました。正午に集合することを確認して、一旦解散しました。
現在時刻は9:30。ボート乗り場で待っているのも何なので、1人でニャウンシュエの街を歩きました。
地図も見ないでぶらぶらしていたところ、とある寺院の横を通りました。ガイドブックの地図にも載っていないので自信がないですが、今調べたところ、恐らくTain Nan Pogadaという名前の寺院だと思われます。何となく惹かれ、中に入ってみようと思い、お邪魔しました。
なお、場所はタイッナン橋を東に歩くと、右側にある寺院です。
中に入りうろうろしていると、あるおじさんが寺院の説明を英語でしてくれました。ロバートさんという名前だそうです。「何かしたいことはあるかい?」と聞かれたので、「僧侶と話したり、写真を撮ったりしたい」と私は答えました。
すると、ロバートさんはこの寺院のすぐ向かい側にある寺院(恐らくTain Nanという名前。名前が同じだし、母屋と離れみたいな関係なのかも…。)に連れて行ってくれました。
中に入ると、大きな広間があり、僧侶たちが代わる代わる食事をとっていました。それにしてもすごい品数。なお、ミャンマーの僧侶はお肉も食べるし、SNSもするし、タトゥーもしています。笑
念願の僧侶との交流。私の右にいるのがロバートさん、左にいるのがウカウェインダ師。笑顔が可愛らしくて、控えめなイケメン紳士でした。
ちびっこ僧侶たちも食事の時間のようで、お櫃の中に入れて手で食べていました。するとウカウェインダ師が「昼ごはん、食べる?」と薦めてくれたので、遠慮なくいただくことに。急にやってきた無礼な外国人の私にも親切にしてくれて、感謝です。あっという間に2時間が過ぎてしまいました。
正午まであまり時間がなかったのですが、ロバートさんがどうしても自宅を見せたいとのことなので、ボート乗り場に戻るついでに少し寄りました。木造家屋で、隙間からこぼれる日光がとてもいい感じでした。もう取り壊してしまったけれど、私が小さい頃、おばあちゃんの家が酪農をやっていて、こんな感じだったなぁ。急に懐かしくなりました。
そして、ボート乗り場でロバートさんとお別れ。その後のボートツアーももちろん楽しかったのですが、インレーでの一番の思い出はこの寺院でのロバートさんや僧侶たちとの出会いです。ミャンマー人の優しさに触れ、最高のプライスレスな思い出となりました。偶然の出会いに感謝。
#088 激安ポッパ山ツアーに参加してみた。 (2015.12.25)
ポッパ山(Mt. Popa)はバガンの南東約50kmに位置する死火山です。山頂に位置する寺院、タウン・カラ(Taung Kalat)はナッ信仰の総本山とのこと。ナッ信仰とはミャンマーに昔から伝わる宗教なんだとか。何だか、日本の山岳信仰にも通ずるような、神々しさを感じる場所です。
そんなポッパ山へはバガンから日帰り半日ツアーで行くことができます。私は宿の近くにある日本人宿(ピンサ・ルパ・ゲストハウス)で申し込みました。オーナーのフミヤさん曰く、「ここで申し込むと9000K(≒900円)だけど、他の人は10000Kでやってるから、値段のことは言わないでね」と言われてました。口が固いことで有名な私はこのことをもちろん誰にも言ってはいません。ただ、ここに書いただけです。笑
てことで、ここで宣伝したので、皆さん、ポッパ山ツアーはフミヤさんのところで申し込むといいですよ。日本語通じるし。
ちなみにフミヤさんは日本語ペラペラのミャンマー人で、自称藤井フミヤ似だから、フミヤと名乗っているそうです。まぁ、雰囲気は何となく似ているかなーという感じですが、親切でとてもいい方です。彼の宿には泊まりませんでしたが、夜wifiを勝手に借りていた感じだと、日本人旅行者たちがロビーで旅の武勇伝をそれぞれ語りながら飲んでるような雰囲気の宿でした。私はそういう輪が苦手なので向いてませんが、日本語が通じるので言葉が不安な方にはこの宿はおすすめです。なお、日本人宿と書きましたが、西洋人もたくさん泊まっているように見えました。
話が逸れました。9:00になってもお迎えは来ません。しかも、日本人宿で申し込んだから一人ぐらい同行者がいるだろうと思っていたら誰もいません。以前、スロベニアでツアーに置いて行かれた苦い経験があるので若干不安になりましたが、フミヤさんが「遅れているだけだから大丈夫」と言っているうちに15分遅れ位で来ました。
↓たぶん一生忘れない、バスツアーに置いて行かれた悲しき一日。涙
10人乗りくらいのワゴン車が来たので、真ん中あたりの空いている席に乗りました。すると、ドライバーが「お前はここだ!」と言って、なぜか私を助手席に案内しました。しかも、助手席に座っていた人をわざわざ降ろしてまで…。そして、15分程謎の車内待機…。そして、誰かを新しく乗せるでもなく出発。よくわからん。
途中でヤシの実工房のようなところで休憩しました。色々なものを売っていたり、牛による実演ショーが行われていたりしました。
飲み物の試飲ができたので、ジュースだと思って飲んでみたらかなり強いお酒でした…。下戸の私には、一舐めが限界。笑
ワゴン車は再び出発し、ポッパ山に向かうのですが、急に「お前はあの車に乗り換えな!」と言われ、なぜか私だけ車を変更。8人乗りの車に乗り換えると、イスラエル人カップル、ドイツ人のおじさま、ロシア人のお姉さま、日本人のおじさまが乗っていて、ドイツ人のおじさまが先ほどの工房で買った甘いドライフルーツをみんなに回してくれました。結構甘かったので、2周目を薦められたものの、私を含め全員が「No,thank you.」と笑顔で断っていました。笑
うたた寝をして、ふと目を覚ますと、渋滞で全く進まない状態になっていることがわかりました。この日は12月25日で休日だったため、家族連れで道が賑わっているんだそう。ここからポッパ山まで約1キロらしいのですが、車でポッパ山の麓まで行くのにどれだけ時間がかかるかドライバーさんもわからないとのこと。
仕方ないので、ポッパ山まで歩くことにしました。地図もないし、どこにポッパ山があるのかもわからない状態だったのですが、とりあえず車と人の列を頼りにひたすら歩きました。 ドイツ人のおじさまは「さぁ、みんな!さっき一緒に食べたドライフルーツのエネルギーを使う時が来たぞ!」と、やたらと張り切ってました。笑
日本製のバスにも遭遇。いや、もしかしたらシンリョウのバガン校のスクールバスかもしれないけど。笑
道中には色々な像を発見。なかなかシュール&ツッコミどころ満載で面白かったです。そういう意味では、歩いてよかったです。
この竹内力風のコワモテおじさまは、聖人ボー・ミン・ガウン氏。かつてポッパ山で修行をしていた方なので、ポッパ山周辺に彼の像がたくさんありました。
ポッパ山が見えてきました。方角が間違っていなくて安心。(みんなマイペースに歩くので結局一人で歩いてました。涙)
途中で小さいマーケットがありました。ミャンマーの女性は頭に物を乗せて器用に歩いています。その姿は昔の日本にもいた「大原女」のようです。(実物を見たことないけど…)
ようやくポッパ山の麓に到着しました。ここまでの所要時間1時間弱。
噂通り、猿がやたらといました。
ポッパ山の猿はお参りの仕方を知っているらしい。
私のお気に入りの奇跡の一枚です。
途中で裸足にならないといけません。謎の水たまり(?)により、地面がちょっとずつ濡れていたりして、足の裏が徐々に濡れ、汚れていくのを感じます。足が濡れるのはまだ許せるのですが、水の出所がわからないので不快極まりない私。
途中でお祈りの部屋もありました。なお、写真左にある、黒い帽子をかぶった座像も、カリスマ=ボー・ミン・ガウン氏だと思われます。
階段で頂上を目指します。休日だと言うことで家族連れがたくさんいたのに加え、何故か学生の集団も多くいました。修学旅行なのか、遠足なのか…。彼らがどんどん後ろから押してくるので大変でした。笑
頂上はやたらと金ピカでした。青い鉄板は、この寺院に寄付をした人の名前です。
頂上からの眺めがこちら。少なくとも写真1枚目の真ん中あたりの場所からはるばる歩いてきました。頑張りました。
そんなポッパ山頂での感想は…
「うーん、苦労して登った割には見どころが少ない…。」
でした。笑
ということで、帰ります。帰りも大混雑。なお、山頂でドイツ人のおじさまとロシア人のお姉さまと合流できたので、一緒に山下りをしました。
途中でキンマが売られてました。キンマとは噛みタバコのようなもので、ミャンマー男性はよく嗜んでいます。なお、キンマを噛むと口の中が赤くなるようで、ミャンマー男性の歯は赤黒くなっていることが多いです。そして、地面に赤い唾を吐くので、道に赤い染みがたくさんあったりします。物は違えど、インドでもよくある光景ですね。
猛暑の中、帰り道も1kmほど歩きました。途中で日本人のおじさまとも合流。ドライバーとは「ヤンゴンレストランで待ち合わせ」という話になってます。が、実は誰もヤンゴンレストランの場所を知らないと言う状態で歩いてます…。笑
帰りも大渋滞。やはり、途中から歩いて大正解だったと思われます。
途中でヤンゴンレストランらしきお店(看板なし)がありました。というか、そこしかレストランがありませんでした。笑
そこで飲み物を飲みながら休憩。みんなはミャンマービールを飲んでましたが、下戸の私は栄養ドリンクのSHARKを注文。なお、ミャンマービールはモンドセレクションを受賞しているらしく、アジア一おいしいビールという噂です。
ようやく全員揃って楽しく話していたのに、一人の男がやって来て「おい!遅いぞ、お前!早く行くぞ!」と私だけ連れていかれそうになりました。『イヤイヤ、私はこのメンバーで帰りたい』と何度も言ったのですが、「お前は俺の車で帰るんだ!」と言って、泣く泣くみんなとお別れ…。
連れていかれた先にあったのは、行きに途中まで乗っていたワゴン車でした。帰りもなぜか私には助手席が用意されていました。VIP待遇なんだかそうじゃないんだかよくわかりませんが、なぜ私だけやたらと車を変えさせられるのか?これも100円分ツアー代が安いからでしょうか…?笑
16:00頃にバガンに戻ってきたら、宿の前でパレードが行われてました。フミヤさん曰く、明日が満月だからお祭りが行われているのだそうです。貴重なものが見られてよかったです。
ようやく昼食にありつけました。朝食のシャンヌードル以降、ほとんど何も食べていなかった(=甘いドライフルーツだけ食べた)ので、はらぺこで飢餓寸前でした。宿の隣のレストランでトムヤムスパゲッティを注文。イタリアとタイの融合料理をまさかミャンマーで食べるとは思わなかったけど、そこまで辛くなくおいしかったです。
20:30発の夜行バスに乗る予定だったので、宿でシャワーや荷作りをした後にチェックアウト。19:00に来る予定の迎えの車がなかなか来なくて再び不安になるも、宿の人が連絡をしてくれたりして対応してくれました。結局ただの渋滞の遅刻だったみたいでした。
座席がI3と書いてあったので早めに座っていたらスタッフに『お前の席はあそこだ!』と言われ、なぜか最前列の席になりました。今日はやたらと席を変えられる日だなぁ…。涙
最前列の席からの眺めは、見覚えのある日本語がいっぱい。どうやら、このバスは元・阪神バスのようです。
バガン→インレーの夜行バスはBAGAN MINN THAR EXPRESSという会社のVIPバスで18500K。距離の問題もあるので一概には言えませんが、ヤンゴン→バガン間のE-lite車よりも割高の割にはショボかったです。最前列だったこともあり、対向車のライトが眩しくてほとんど眠れませんでした。(アイマスクがあったのですが、ゴムが伸びきっていて使い物にならなかった…笑)
ただ、「バガン→インレーの夜行バスは道が危ないからやめたほうがいい」という書き込みをどこかで見たのですが、私が乗っていた感じだとそう思ったことは一度もありませんでした。効率よく廻りたい人にはオススメです。
翌朝4:00頃、インレー湖近くのニャウンシュエのバスターミナルに到着。乗り合いタクシーのソンテウで宿に到着しました。
次回はインレーについて書こうと思います。
#087 バガンの仏塔から朝日を見てみた。 (2015.12)
バガン2日目は早起きして、朝日を見に行ってきました。
まだ真っ暗な中、朝5時にサイカーで宿を出発しました。運転手は、初日にバスターミナルから宿まで送ってくれたアウンゴさんにお願いしました。空には、沈みかけの黄色い月がありました。地平線に近づくにつれ、徐々に赤くなる月が何とも綺麗でした。
バガンに数あるサンライズスポットの中から、アウンゴさんはBuledi Pagodaに連れていってくれました。某ガイドブックには載っていない仏塔にも関わらず、多くの観光客がいました。他の仏塔や寺院と同様に裸足になり、仏塔の階段を登るのですが、早朝はレンガが冷えていてなかなかつらかったです。でも、6時から仏塔の段に座り、ひたすら日が昇るのを待ちました。
6:30頃、徐々に空が明るくなりました。遠くでは気球ツアーが開始し、空に無数の気球が飛び立ちました。
そして7時頃、遂に太陽が昇りました。真っ赤な朝日、霧でかすむ仏塔や寺院、その上を浮かぶ気球のある風景はとても幻想的でした。
日が完全に昇っても、青空に気球が映えていて美しかったです。いつまでも見ていたい景色です。
が、とにかく寒かったので、防寒対策はしっかりした方がいいです。私はダウンジャケットを着て、薄いストールを足に巻いて冷えないようにしていたものの、それでも足元が冷えました。アウンゴさんは塔には登らずに下で待っていましたが、帰り道に改めて見てみるとちゃんと防寒対策をしていることに気付きました。
9時からポッパ山ツアーがあるので、宿に戻りました。意外にも道が混んでいます。ミャンマー人の朝は早いです。
現在の時刻は8:30にもかかわらず、朝食をまだとっていない私。宿でも無料の朝食がついていましたが、麺料理が食べたかったので、アウンゴさんのオススメのお店に連れて行ってもらい、一緒に食べることにしました。宿からサイカーで3分くらいのところにあるこの食堂は地元の人で人気でした。
これがミャンマーの朝食の定番、シャンヌードル(シャン カウソエとも言うようですが、私はシャンヌードルと呼んでいました)。モチモチの麺にからむスープが絶品です。味は濃厚なのに油っぽくないし、辛くもありません。たった800K(≒80円)なのに、このうまさ。日本のミャンマー料理店ではなかなかお目にかかれないのが残念…。日本で1000円出しても食べたい位、私のミャンマー料理ナンバー1です。アウンゴさんは汁に入った麺を食べてました。
この食堂ではテーブルに揚げ物が置いてあり、食べた分だけ申告する制度でした。三角形の形の春巻きみたいな揚げ物も香ばしくておいしかった!「安い・早い・ウマい」で大満足!アウンゴさん、チーズーベーー(ありがとう)!!
そして、急いで宿に戻り、9時ギリギリにすぐ近くの日本人宿へ行き、9000Kのポッパ山ツアーに参加しました。このツアー、なかなかすごいツアーだったので、#088で詳しく書こうと思います。笑
#086 タナカを塗って、夕陽を見てみた。 (2015.12)
ミャンマー女性の美の秘訣と言ったら『タナカ』。 何となくアンガールズの彼を思い浮かべてしまいますが、「田中」ではなく「Thanaka」です。当たり前ですが、「タナカ」はあっても、「ヤマネ」はありません。笑
※ちなみに、アンガの田中さんは性格よさそうだし、私は結構好きだったりします。笑
タナカとは、タナカという木を擦って、水と一緒に混ぜてペースト状にしたものです。これが、保湿と日焼け止めの役割を果たすようで、ミャンマー女性はみな顔に塗っているのです。色は薄い黄色をしていて、朝の洗顔後にタナカを塗り、一日過ごします。中には模様を入れてるツワモノも…。おしゃれと美容を兼ねているんです。
出発前にミャンマーについて調べているときにタナカの存在を知ったので、実はやってみたいと思ってました。 そしたら、その機会は突然やってきたのです。
バガンに着いて早々に馬車で寺院仏塔巡りをしたことは#085で書きましたが、その日の続きを今日は書こうと思います。
とある寺院で子犬の写真を撮っていたら「あそこにリスもいるよ!」とお姉さんに言われました。
そのお姉さんは、馬車の運転手のスースーさんの友だちらしく、寺院のすぐ横で土産店を経営されてる人だそう。だから、たぶんスースーさんもこのお寺に寄ったんだと思います。そしたら、そのお姉さんが「タナカ、やってみる?」と言ってくれたのです。
「やりますとも!!」
その場で擦ってくれ、ペースト状になった出来立てを私の顔に塗ってくれました。さらに、爪楊枝を使って、器用に葉っぱのデザインをしてくれました。徐々に乾燥していくにつれて、タナカの色が白くなっていきます。
お姉さんの土産物屋でミャンマー語の書かれたTシャツが売っていたので、それをさんざん交渉して購入しました(固形タナカのお土産付き)。私が「お願い!」と拝んで値段交渉する様子を勝手に動画におさめたスースーさんは大爆笑し、「いい土産ができた」と言ってました。笑
その後はエーヤワディー川のクルーズに行きました。15000K→13500Kに交渉。贅沢に、白い船を独り占めしました。
※1K(チャット)≒0.1円
船からはミャンマー人の日常生活を垣間見ることができました。洗濯物が干してあったり、川で遊んでいたり、おしゃべりしていたり、仕事をしていたり…。なぜ川の近くにバス(しかも日本製)があるのかは謎ですが。笑
そして、船の揺れが心地よくなり、途中で眠くなり、寝てしまいました。船に乗ると毎回眠くなるのは私だけですか?笑
船乗り場のすぐそばにブー・パヤー(Bu Paya)があり、黄金に輝いていました。私は外から見ただけですが、ここから見る夕陽は美しいようです。
確か、ブー・パヤーの入り口付近だったと思いますが、エビのかき揚げ(500K)が売られてました。パリパリで香ばしくて本当においしかったです。
クルーズの後も、4か所くらい巡ったのですが、さすがにお腹いっぱいになってしまい、何て言う名前の寺院や仏塔なのか忘れてしまいました。ごめんなさい。
そして、念願のサンセットの時間がやってきました。スースーさんが連れて行ってくれたのはシュエサンド・パヤー(Shwesandaw Paya)という仏塔。バガンの夕陽の名所としてあまりにも有名な場所です。
アンコールワットの時みたいに急な階段を上りました。もう少し階段で上ることもできたのですが、混んでいて怖かったし、私は一つ下の階で日の入りを待つことにしました。名所なだけにすごい人。
写真ではそこまで綺麗に撮れませんでしたが、美しい夕陽を拝むことができました。
偶然近くにいた日本人が「沈んでからも幻想的で美しいんだよ」って言っているのが聞こえ、彼らは空が紫になるのを待つことにしたみたいですが、私は人が少なくなったのを待って降りることにしました。
宿に戻り、スースーさん&馬車とお別れ。夕陽まで見ることにしたので延長料金を取られたけど、満足でした。一日チャーターで30000K位だったと思います。タナカの時の動画で安くしてもらったら、最後に、『アンタ、ずーっとディスカウントしてたね』って言われちゃいました。笑
馬車で観光するってのも、珍しくてたまにはいいと思いますよ。件の日本人たちはバイクを借りて、廻っていたら故障して大変だったみたいですが。自転車で廻っている人も見かけましたが、道が凸凹しているので走りづらそうでした。個人的には、サイカーか馬車がオススメです。値段交渉をしっかりして、是非乗ってみて下さい。
そして、夕食は宿近くのレストランでバガン名物のエビカレー3500K。ちょっとオイリーだけど辛くないし、トマトが効いていてエビ好きの私には絶品でした。また食べたい。
でも、この夕食の一番のヒットは、ナッツサラダ。香ばしくて、本当においしかったです。が、生の千切りキャベツが使われているので、心配な方は避けた方がいいかもしれません。私はまったく平気でした。
この後、レストランと宿の間にある日本人宿でwifiを勝手に使ってから宿に帰還。ヤモリ氏が迎えてくれました。笑
バガン初日は色々な場所に訪れて忙しい日でしたが、翌日は日の出を見に行ってからポッパ山に行きました。その日も色々あったので、また書きたいと思います。
#085 馬車でオールドバガンを巡ってみた。 (2015.12)
古都バガンにはなんと2000以上の仏塔や寺院があります。全てを見ることは不可能なので、バガンに到着したその日に馬車を一日チャーターして、オールドバガンを廻ってもらうことにしました。
バスターミナルで会った馬車の運転手スースーさんと9:00に宿で待ち合わせる約束をしておいたのです。
馬車の乗り心地は悪くないです。が、時々馬が言うことを聞かないと私の眼前で鞭を打たれるので、それを見るのはちょっとつらいものがありました。頭の花飾りが可愛らしいです。
ミャンマーは仏教国なので、お坊さんがよく歩いています。男性の法衣の色はえんじ色で、女性はピンク色の法衣を着ています。
まず初めに行ったのはTha Gyar Hit。
これはミャンマーに限らず、東南アジア全体の寺院に共通していることですが、土足厳禁。履物を入口で脱いでから裸足で入ります。なので、寺院巡りの日はビーサンなどの着脱の楽な履物を用意することをオススメします。
内部には仏像と仏画がありました。古い建造物なので、絵は結構色あせていました。
狭くて急な階段を上って屋上まで行きました。知らないおじさんが説明を色々してくれました。何者かと思いきや、絵描きさんらしく、入り口近くで絵を売っていました。彼だけでなく、一つの寺院内で何人もの絵描きさんが同じような絵を広げて売っています。
次に訪れたのが、ティーローミンロー寺院(Htilominlo Temple) 。ここは有名な寺院なのか、観光客がたくさんいました。
この寺院には、黄金に輝く仏像が4体あり、それぞれ顔が違うのが面白かったです。ここではミャンマー人に倣い、日本とは違うミャンマー式の参拝方法を学びました。説明が難しいのですが、正座をして、胸の前で合掌した手を上げてから下ろしつつ、そのままひれ伏す…って感じです。
観光地には、子どもの売り子もいます。ちゃんと学校に行っているのかと心配しましたが、冬休み中だから働いていて、普段は学校に通っているようなので安心しました。一番右の子の絵は全部自分で描いたものですが、他の2人は大人が描いた下書きに色を塗ったものです。それぞれ個性があって面白い。大人顔負けの英語力&商魂にビックリ!4枚セットでそれぞれ1ドルだったので購入しました。
この少年は、ピヨピヨ君(12)。無名な寺院で絵を売っていました。どこかで拾った宝物を「これはダイヤモンドなんだよ!」と、目をキラキラさせながら話してくれました。どこの国でも、子どもは純粋そのもの。
ピヨピヨのいた寺院ではミャンマーの日本統治時代(1942〜1944年)の紙幣を売ってました。特に紙幣コレクターという訳ではないのですが、何となくほしくなってしまい(私は『そこでしか手に入らないもの』に弱い。笑)、さんざん交渉して3枚で3500Kで買ってしまいました。なお、画像一番下の紙幣は、スーチー氏の父親です。 恥ずかしながら、ミャンマーが元日本領だったことを私は知りませんでした。当時の通貨単位はルピーだったんですね。また何かの機会に仕事で役立てたいです。
※1K(チャット)≒0.1円
で、このおじさんをてっきりピヨピヨのお父さんかと思ったので、聞いてみたら、話は予想外の方向に…。
私「この人が、ピヨピヨのお父さんなの?」
ピヨピヨ「違うよ。パパは家にいるし!」
おじさん「私が2番目の父親だ」
ピヨピヨ「ノー!」
私「え?この人がお父さんなの?」
ピヨピヨ「違うってば!」
おじさん「私が本当の父親だ」
ピヨピヨ「ノー!!」
私「え?そうなの?」(以下、無限ループ)
大人2人で幼気な12歳をイジリ倒しました。
ごめんね、ピヨピヨ。教科書通りの返事が可愛かったんだもん。笑
ミャンマー語で私の名前を書いてもらいました。
ちょっとピンボケしてますが、ピヨピヨ(Phyo Phyo)はこう書くようです。
この仏像の写真撮影は禁止なのですが、お札を買ったら偽ピヨピヨパパと仏像とのスリーショットを撮ることができました。お金で解決するんかい。笑
(撮影:ピヨピヨ)
で、ランチはミャンマーカレー。その店はメニューが1種類で、マトン、ポーク、ビーフカレー+ライス+付け合わせで4000Kでした。次々と私の前に料理が運ばれてきます。ひとつ言っていいかな?量が多いって!
しかも、何に対しても油がたくさん入ってる。もこみちもビックリの油量だわ。てか、moco'sキッチンをミャンマーでやったら流行るんじゃないかな。あんま見たことないから知らんけど、オリーブオイルをもこみちは多用するんですよね?笑
ミャンマー料理は確かに油っぽいんだけど、ごはんや野菜と一緒に食べると、そこまで油っぽさは感じませんでした。むしろ、油っぽさが徐々にクセになるのです…。もやしのスープがやさしい味で箸休めにぴったり。
昼食後はバガンで一番有名なアーナンダ―寺院(Ananda Temple)へ。黄金の立像が珍しくて見入ってしまいました。多くの寺院に共通していることですが、ここでも東西南北に1体ずつ(計4体)ありました。
床のタイルもおしゃれ。
これを1000Kで購入。何だと思いますか?
答えは…。
金箔でした!売り子が日本語で「キンパク」と言いながら売っています。観光客が金箔をたくさん貼るので、仏像がどんどん丸くなっているように思えました。
同じ敷地内ではセパタクローに勤しむ少年たちがいました。ミャンマー版『蹴鞠』ですね。すごく楽しそう。タイでも流行してました。
9世紀に建てられたタラバ―門(Tharabha Gate)は、バガン最古の建造物です。
その後、Mahabodhi Templeに行きました。ミャンマーは8曜日制がとられており、水曜日が午前と午後に分かれています。寺院によっては曜日によって祭壇が違ったりするので、どのミャンマー人も自分が何曜日生まれなのかを知っています。なお、画像の左から順に
日曜日…鳥
月曜日…虎
火曜日…ライオン
水曜日午前…牙のある象
木曜日…ネズミ
金曜日…モグラ
土曜日…竜(ナーガ)
水曜日午後…牙のない象
が、守り神なので、その前でお参りします。ちなみに、私は日本だと日曜日生まれですが、ミャンマーだと水曜日午後生まれのようです。
この後、写真を撮っていたら面白い体験ができました。長くなりそうなので、馬車ツアーの続きはまた次回書こうと思います。
#084 ヤンゴンからバガンまで夜行バスで向かってみた。 (2015.12)
そういえば、2015年のミャンマー旅行についてほとんど書いてなかったので、何回かに分けて書こうと思います。
日本からミャンマーへの直行便は飛んでいないので、私はバンコク経由で入国しました。
名古屋11:00→バンコク15:40
タイ国際航空は当時初めての利用でしたが、快適ですぐに気に入りました。乗り継ぎ待ち時間も丁度いいし…。
なお、日本とミャンマーの時差はマイナス2.5時間。3.5時間差のインドでもですが、この0.5時間=30分の計算が苦手な私は超文系です…。笑
ミャンマーの通貨単位はチャット(Kyat=K)で、1K≒0.1円です。USドルもあると何かと便利です。ミャンマーには硬貨はなく、すべて紙幣の国なので、ちょっとしたお金持ち気分になれます。笑
飛行機は予定通り19:00前にヤンゴンに到着しました。ところが、入国審査に予想以上の時間がかかりました。外国人専用窓口が少ない上、ビザチェックに時間がかかったからです。
なお、私はeビザで入国しました。出発1週間前に行くことを決め、そこから航空券とビザを取ったので、正直間に合うか心配でしたが、ビザ申請翌々日にはメールでデータが届きました。プリントアウトして、現地空港の入国審査で出せばOK。
2015年当時はヤンゴン、マンダレー、ネーピードーの3空港のみ有効でしたが、HPによると、2017年現在はタチレイ、ミャワディ、コータウンの陸路3国境でも利用できるようです。
※2018年10月に、日本国パスポート所有者には観光ビザ取得が免除になりました。日本人にとって、ミャンマーがますます身近な国になったようで、嬉しい限りです。
何とか入国審査を抜けたものの、預入荷物が一番遅く出てきたこともあり、20:00頃にようやく到着出口を出ました。それから、急いでタクシーを拾いました。と言うのも、ヤンゴン到着の日にそのままバガンまで移動しようと思っていたのです。
アウンミンガラーバスセンターまでは約1時間かかるとのことで、 21:30発の夜行バスに間に合うか不安でした。一応バスの予約はしてあるのですが、30分前には受付を済ませて下さいと言われていたからです。
21:05にバスターミナルに到着。急いで、カウンターに行きました。
そこで名前を言うと、「あなたの名前は20:00(だったかな?)の便にあったわよ。」と言われました。実はネットでのバス予約の仕方がわからず、某SNS上でやりとりをして、E-liteのスタッフに席を押さえてもらっただけだったのです。そのスタッフとのやりとりメールを見せ、そちらの間違いだということを伝え、無事に21:30のバスの席を確保することができました。
ミャンマーには色々なバス会社がありますが、私がネットで調べた限りヤンゴン→バガンの最終便は21:30発のE-lite Expressでした。意外にもバス内は満席でした。私はたまたま1席空いていたから、運よく乗ることができたのです。まぁ、乗れなかったらターミナルで野宿して、早朝便でバガンに向かう覚悟はできていましたが…。笑
ミャンマーでは夜行バスを3回利用しましたが、E-liteが一番綺麗で快適でした。歯ブラシとウェットティッシュはどのバスでももらえますが、さらに軽食とホットコーヒーのサービスがありました。14200Kでこのサービスは本当にありがたかったです。席も広かったし、とにかく快適でした。
夜中の3時頃、休憩がありました。少し小腹が空いていたので、食堂で炒飯を注文しました。これが私の初ミャンマー料理です。ミャンマー料理は基本的に油っぽいと聞いてましたが、そこまでくどくなくパラパラでおいしかったです。値段は何と850K。たぶん、ドライブインだから高めの値段設定だとは思いますが、85円とは思えないおいしさに大満足。これからのミャンマー料理が楽しみになりました。
ドライブインのトイレはこんな感じ。ここはマークと英語表記がありますが、ミャンマー語表記だけのときもあるので要注意です。それにしても女性マークの頭部がないのは何ででしょうね?笑
6:00到着予定でしたが、少し遅れて翌朝7:00過ぎにバガンに到着しました。バスターミナルは閑散としていましたが、アジアの他の国同様に囲まれます。しかも、この町では3種類の運転手に。笑
バスターミナルに着いてから宿までの交通手段は
①タクシー(7000K)
②馬車(6000K)
③サイカー(5000K)
があるようです。
私はもちろん1番安い③を選択しましたが、5000K→3500Kで交渉成立。インレー行きの夜行バスを予約してから、宿のあるニャウンウーへ向かいました。
サイカーは運転手の横に座るタイプの人力車です。風を切って進むので気持ちよくて快適でした。
30分ほどでニャウンウーに到着しました。350円の快適な移動もおしまい。なお、途中でバガン入域料$20を払いました。
バガンでの宿はこちら。出発ギリギリに予約したので、便のいい宿は満室ばかりでした。後で出会った日本人も、現地で宿を取るのに苦労したようなので、バガンの宿は事前に抑えておいた方がいいかもです。
さらに、オールドバガンは観光地、さらに年末のハイシーズンということもあり、全体的に宿代が高めでした。このMay Kha Lar Guesthouseも、一泊26000K。ギリギリに予約した割には観光に便利な場所にあったし、目の前にセブンイレブンがあったし、部屋は古いけど綺麗に掃除されていたのでまぁまぁオススメですが、wifiが不安定でほぼ使えませんでした。
バガンでは多くのレストランでもフリーwifiが使えるのですが、通信状況が不安定なため、よく途切れるし、通信速度が遅いです。我が宿のすぐ近くに日本人宿ピンサ・ルパゲストハウス(Pyinsa Rupa GH)があり、そこのwifiはなぜかよくつながるので、そこにこっそり行って使ってました。笑
※そこで翌日のツアーを申し込んだので、宿泊客ではないけどwifiを自由に使っていいはず!と自分に言い聞かせてました。え、図々しいですか?笑
宿でシャワーを浴びたり、荷物を整理した後、9:00から仏塔巡りをしました。そのことについてはまた次の記事で書こうと思います。
#083 モスタルで「平和の橋」を渡ってみた。 (2011.8)
モスタル(Mostar)は、サラエボから南西に位置する都市で、バスで約3時間弱かかります。
私はサラエボからバスで向かいましたが、クロアチアの観光地であるドブロヴニク(Dubrovnik)から日帰りツアーも出ています。
モスタルのシンボル的存在なのが、このスターリ・モスト(Stari Most)。この美しい橋にも、ボスニア内戦で破壊された悲しい歴史があります。
予定よりも少し遅れ、17:45にモスタルのバスターミナルに到着しました。モスタルには1泊予定なので、必要な荷物をボストンバッグに入れて、スーツケースはコインロッカーに預けました。
山の頂上に巨大な十字架を発見しました。モスタルもボスニア・ヘルツェゴビナの都市なのでイスラム教徒が多いはずなのですが、この十字架は2000年にクロアチア人(=カトリック教徒)によって作られたそうです。詳しくは後で書きますが、この町では宗教や民族による住み分けがされているのです。
ここでも、ボスニア内戦で被害を受けた建物がいまだに残っています。
このモスクは中に入ろうとしたら、ムスリムしか入らせてもらえませんでした。残念。
橋の方面に更に歩くと、土産物店が立ち並んでました。地面には石をはめ込んでいるので、ゴツゴツしていてちょっと歩きにくいです。スーツケースを預けて来て正解でした。
イスラム国家なだけに、アラビアーンなお土産がいっぱい売られていました。ヨーロッパにいることを忘れてしまうような雰囲気です。それから、モスタルもクロアチア同様、ラベンダーの産地のようです。
中には、内戦グッズと思われるものも…。
『DON'T FORGET』という石碑には『内戦の悲劇を忘れてはいけない』という意味があるのでしょう。
いよいよ、スターリ・モストのすぐ近くまでやってきました。
とても綺麗なこの橋は、1993年11月にクロアチア人兵により破壊され、2004年に再建されました。そして、2005年にはこの地区がボスニア・ヘルツェゴビナで初の世界遺産に登録されました。
スターリ・モストはとても滑りやすい素材でできています。そのためか、凸凹の段差が滑り止めの役割をしているようにも思えました。それでも滑るけれども…。この時も「スーツケースをバスターミナルに置いてきてよかった」と心から思いました。笑
橋の下には、ネレトヴァ川が流れています。橋の高さは24メートル。毎年夏には飛び込み大会が開催されているそうです。これができるようになったのも平和な証拠ですね。
橋を渡ったところにあった、『DON'T FORGET '93』の文字。左後ろの写真が橋が壊された後に作られたつり橋だと思われます。
モスタルでは、橋の西側がムスリム人地区、東側がクロアチア人地区で住み分けがされています。バスターミナル側から橋を渡った私は、たった今クロアチア人地区に入りました。つまり、先ほどの十字架のある側です。今まであったエキゾチックな雰囲気はなくなりました。こちらも内戦の銃弾痕がいまだに残っています。なお、クロアチアの主な宗教はキリスト教ですが、クロアチア人地区にもモスクはあります。
私が宿泊した宿(Kriva Cuprija)がこちら。クロアチア人地区にあります。カッパドキアで泊まった洞窟ホテルのような、石を削って作られた部屋でした。豪華なビュッフェ朝食付き。(€39)
夕食は宿の近くのレストランで取りました。この辺りでは鱒が捕れるからか、名物となっています。私も鱒のグリルを注文しました。焼き加減もよく、おいしかったです。レモンを絞って味を変えてもこれまた絶品。付け合わせのほうれん草のソテーもいい脇役ぶりでした。(29KMマルカ≒1600円)
満腹で大満足した私は、再び橋を渡って、ムスリム地区に向かいました。夕暮れになると街がライトアップされていい感じでした。個人的意見ですが、イスラム国家が最も美しく見える時間帯は日没直後の夕暮れだと思っています。アラビアンなランプと、街中に流れるアザーンが本当にいい味を出してくれるのです。
帰り道(確か、クロアチア人地区)に、ジェラートのお店があったので買いました。これは何味のジェラートだと思いますか?
答えは、コーラ味。感想は… 二度と買うことはないと思います。めちゃ甘いコーラ味で、マシュマロのような食感でした。笑
翌朝、ネレトヴァ川のほとりまで行き、スターリ・モストを下から眺めました。改めてみると、高くて細い橋です。
ほとりにこんな石碑がありました。おそらくボスニア語で書かれているのですが、数字とスターリ・モストという言葉を拾った感じだと、『1993年の11月9日にスターリ・モストが破壊された』という旨が書かれているように思えます。(※あくまで予想です)
橋の東側には展望台みたいなところがありました。あと、内戦中の写真を展示したギャラリーも。そこにあった写真には、避難する子どもの写真などだけでなく、兵士や死傷する市民の姿もあり、私の想像を遥かに超えた残酷なものばかりでした。今でもはっきりと覚えているのが、ひれ伏す市民に対して冷たい銃口を向ける兵士の写真と、真っ白な雪が積もった土に真っ赤な血が大量に流れている写真です。
橋を渡り、ムスリム地区に入ってすぐの所にも、ギャラリーがありました。こちらは固定ビデオカメラで撮影された、スターリ・モストがクロアチア人によって破壊されていく映像を無料で見ることができます。クロアチア人兵士たちが何度も何度も砲撃を重ねていき、橋が徐々に破壊されていく姿には心が痛みました。そして、とどめのロケット弾により、橋は粉々になり、川へと崩れていくのです…。
2004年にユネスコの協力により橋が再建されるまで、弧のない橋の両端で宗教や民族による住み分けがされていました。橋は復元され、通行は可能になりましたが、今でも住み分けは実質行われています。島国の日本に生まれた私には、宗教や民族の大きな対立というものを経験したことがないし、『橋を越えた先は異なる国や民族だから行ってはいけない』というイメージができないのですが、民族や宗教による考え方の違いから今日も戦争が起きているように思えます。なかなか根が深く、難しい問題であるし、ボスニア内戦の概要しか知らない私には偉そうに語る資格はないのですが、少なくとも「お互いの違いを認め、理解しようとする」ということができたら、世界はもっと上手く回るのではないかと思います。
ドブロヴニク行きのバスが12:30に出発なので、バスターミナル方面に戻りました。スターリ・モストを北に行く(バスターミナル付近)と、ネレトヴァ川がより美しい色で流れていました。
ドブロヴニク行きのバスは4番のバス停から出発していました。(25KM≒1400円)
サラエボに続き、モスタルでも日本から贈られたバスが走っていました。
バスは定刻に出発し、ほどなくしてクロアチア国境に到着。警察官がパスポートを回収してスタンプをもらい、無事に入国しました。
このモスタル→ドブロヴニク行きのバスですが、満席だった上、ぐねぐね山道が続いたので、普段バス酔いしない私でも少し気分が悪くなりました。酔いやすい方は酔い止めを飲んでから乗ることをオススメします。
以上、ランダムに2011年夏の旧ユーゴ旅行を挙げてきましたが、廻った順は以下の通りです。
↓
モスタル(今回)
↓
ドブロヴニク
↓
↓
↓
↓
↓
↓
という流れで廻りました。なお、ドブロブニク2011は省略しましたが、昨年8月のクロアチア旅行記はまとめてありますのでよろしければこちら↓をどうぞ。
クロアチアは景色も美しいし、ごはんもおいしいので、個人的にはオススメの観光地です。ただ、その美しい街並みの裏には内戦から復活した悲しき歴史があるということを忘れずに旅をしてもらえたらと思います。そして、お時間があればボスニア・ヘルツェゴビナにも是非寄っていただきたいです。
#082 サラエボで戦場跡地を巡ってみた。 (2011.8)
サラエボ(Sarajevo)はボスニア・ヘルツェゴビナの首都です。この地では、2つの大きな戦争が勃発し、戦地となりました。1つ目は1914年に始まった第一次世界大戦。サラエボ事件がきっかけで世界大戦にまで拡大してしまいました。2つ目は1992~1995年のボスニア内戦。中学生だった私は当時その惨状を全く理解していませんでしたが、それでも「サラエボから中継です」という言葉をニュースでしょっちゅう耳にしたことは覚えています。なお、そのサラエボからの中継地だった場所がこの写真のホリデイインホテルです。
このブログで2011年夏のクロアチア旅行について時々書いていますが、実はザグレブに着いてすぐにサラエボに夜行バス(約200kn)で移動しました。バスターミナルでバスを待っていると、見知らぬ人に「なんでサラエボなんかに行くんだ?」と不思議がられました。理由は単にクロアチアから近いから行ってみただけなのですが、内戦の跡地を見てみたいという思いも正直ありました。うまく言えないのですが、とにかく「楽しかったー!」だけの旅で終わらせたくなくて、戦争などの負の歴史から目を背けてはいけないと思ったからです。仕事柄、子どもたちにも見せたいと思いました。
元々、クロアチアもボスニア・ヘルツェゴビナも、同じ国でした。それが、今は無きユーゴスラビア連邦です。
『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』と呼ばれていたほど、多民族・多宗教の国家でした。1991年から次々とユーゴスラビアから独立し、今では地図上にユーゴスラビアという国は存在せず(国連でのマケドニアの正式名称として「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」は残っているようですが…。)、「スロヴェニア、マケドニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、コソボ」の7つの国家(※コソボの独立を認めていない国もありますが、日本は独立承認国です。K氏によると、日本人は独立を認めているからビザなしでコソボに入国できるそうです。)にそれぞれ独立しています。サッカーがさかんな地域なので、日本で大活躍したピクシーことストイコビッチ氏はセルビア出身、現日本代表監督のハリルホジッチ氏はボスニア・ヘルツェゴビナ出身です。
スロヴェニアやマケドニアの独立ではそこまで血が流れなかったようですが、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナでは多くの死傷者が出ました。特に、ボスニア内戦では、1992年から1995年の約3年半で20万人の死者と200万人の難民が出たそうです。
私がサラエボを訪れたのは2011年で、ボスニア内戦終戦から15年ほど経っていた頃でした。それでも、バスの中から見たサラエボの景色には、恐らく内戦で破壊された廃屋の姿がありました。
22:00にザグレブを出発し、翌朝6:00頃にサラエボのバスターミナルに到着しました。ロッカーに大きい荷物を預けて、バスで一緒だった韓国人Jadeと一緒に廻りました。彼女とは年齢が一緒だったこともあり、すぐに仲良くなりました。
サラエボ中央駅でトラムに乗り、中心部に向かうことにしました。旧社会主義国によくある、無機質な建物が並んでいました。
新しいようで少し年季の入ったトラムがやって来ました。MIKADOと書かれた広告が気になります。チョコレートのようですが。帝?笑
トラムは先ほど少し触れたホリディインの前を通りました。内戦当時、記者たちは皆このホテルに宿泊していたそうです。ホテルの前の大通りはスナイパー通りと呼ばれているのですが、これはボスニア内戦の頃、ここを通る者は全て(動物さえも)撃たれたことから来ているそう。よーく見ると、今でも銃弾の跡があるのがわかります。ここから当時命がけの中継が行われていたのですね。
ボスニア・ヘルツェゴビナの主な宗教はイスラム教なのですが、モスク以外にもカトリックやセルビア正教(画像2枚目)の教会やユダヤ教のシナゴーグが徒歩圏内に集まっていました。旧ユーゴ内でも地域によってメジャー宗教が異なっていたからこそ独立運動が起こったのかなぁ、とも思ってみたり。そう思うと、多宗教でも国がちゃんと成り立ち、お互いを認め合っているインドってすごいなぁ、と改めて思います。
トラムを降りると、もうサラエボ中心部でした。ミリャツカ川沿いを歩くと…。
橋、発見。これが有名な『ラテン橋』です。何で有名なのかというと…。
この場所が、第一次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件の現場(※正確には、橋を渡った北側にある、この石碑付近が事件現場)だからです。1914年6月28日にここでオーストリア皇太子夫妻が暗殺され、最終的には世界中を巻き込んだ第一次世界大戦が勃発してしまいました。戦争のきっかけというのは本当に些細なことだったりします。当時も、まさかこの暗殺事件から世界戦争になるだなんて、予想していなかったことでしょう。
このラテン橋も内戦で破壊されたので、現在架けられているのは2004年に再建されたものだそうです。大理石で作られています。
ラテン橋を渡って北側を歩いてみると、新市街がありました。古いものもありますが、大半はとても綺麗です。綺麗ということは内戦で破壊され、再建された街並なのではないかと思ってしまいます。
至る所に銃弾の跡が残っています。サラエボ市民は内戦中の3年半をどれだけの恐怖や悲しみを抱えながら生活をしていたんだろうか…。
有名な『ツァレヴァ・モスク』の手前にも内戦の爪痕が残っていました。
時々、名前の書かれたプレートやお墓を見かけました。作成された年を見ると、内戦中に亡くなった方のものであることがわかります。
大戦の犠牲者を偲ぶ永遠の炎(Vječna vatra)はサラエボ五輪の時から現在も絶やさずに灯され続けています。それでも、内戦中は燃料不足のため消えていたとのことなので、サラエボの平和のシンボルだと私は思っています。
1984年に社会主義国初の冬季オリンピックが開催されました。それがサラエボ五輪です。サラエボにはそれを記念した五輪博物館があるので、行ってみることにしました。
中心部から離れてるのでタクシーに乗って向かいました。途中で野良犬の集団に遭遇。
こちらが五輪博物館です。すぐ近くにスタジアムもあります。
近年のものから東京五輪のものまで、歴代オリンピックのポスターがズラリ。
内戦前のオリンピックなので、当時のサラエボは『ユーゴスラビア』の一都市でした。マスコットキャラクターの『ブチコ(Vučko)』は、ユーゴに生息しているとされた幻のオオカミがモチーフになっているのだそう。
すぐ隣ではサッカーをやっている学生らしきグループがいました。
しかし、この後私は衝撃の光景を目のあたりにします。私の眼前に無数に現れたのは、どこまでも続く、悲しき内戦の産物でした。
それは内戦の被害者の方々の墓地でした。内戦中にお墓を作る土地が不足し、やむなくオリンピックの補助グラウンドを墓地に充てたそうです。当然ながら、お墓に刻まれている亡くなられた日は1992~95年に集中しており、ここで内戦が起き、多くの被害者が出たことを改めて肌で感じた瞬間でした。思わず感涙。どうぞ安らかに。
そんな中、一本の木を見つけました。石碑に『桜』という漢字が刻まれていました。日本のボランティア団体が2002年に植樹したもののようです。戦争の過去は消えませんが、この桜の木が大きく咲き誇る頃には世界が平和で溢れていることを願うばかりです。
なお、サラエボにはJAPANと書かれた路線バスが走っていました。日本の中古バスがサラエボで新たな人生を歩み、今日も市民を乗せて走っています。
五輪スタジアムから戻って来てから、再度トラムに乗っていたら、パンッ!! という轟音が車内に響き渡りました。銃声か?地雷か?と怯えていたら、ただのタイヤのパンクでした。笑
自分で選んだとは言え、元戦地を見ていると食欲が全く湧かないのですが、とりあえず昼食を取りました。チェヴァプチチ(ćevapčići)と呼ばれる料理です。味付けや食材がやはりイスラム国家なんだなぁと感じる味でした。中のお肉がジューシーでおいしかったです。トルコのキョフテみたいな感じ。
私は8時間ほどのサラエボ滞在の後、モスタルというボスニア・ヘルツェゴビナの都市にバスで向かいました。(18KM(マルカ)≒990円)
ここでJadeとお別れ。彼女はサラエボに数泊した後にセルビアに行くようです。
モスタルへの道は山越えが中心でした。14:30にサラエボを出発し、モスタル到着は17:00到着予定。
サラエボを出てしばらく経つけど、今何時だろ?携帯で確認しよっと。えーっと、携帯はどこだっけ?(ごそごそ)
あれ? あれれ??
け、携帯がない。
どこを探しても私の携帯はありませんでした。サラエボに着いてからの記憶を反芻すると、「永遠の炎」は携帯のカメラで撮影したことが判明。そこから一度も使っていないはず。
結局見つからないためいまだに原因不明ですが、可能性としては
①『永遠の炎』の後、街中で落としたor盗まれた
②タクシーの中に置いてきた
のどちらかだと思われます。ガラケーではあるものの、以降の道中で待受画面にしたいような絶景を携帯で撮影できなかったのが悲しかったです。
サラエボには、今もなお内戦の爪痕が残り、街を歩くと心が痛みます。ただ、戦争を知らない私たちが戦争の悲惨さを知るには実際に目で見てそれぞれ感じることが大切なのではないかと私は考えているので、行ってよかったと思います。
この後、モスタルでも内戦跡地を訪れたので、また書こうと思っています。
#081 プリトヴィッツェ国立公園を歩いてみた。 (2011.8)
プリトヴィッツェ国立公園はクロアチアの首都ザグレブから南へ110kmのところに位置し、大小16の湖と92の滝が園内にあるそうです。
前日の深夜に到着した時はあまりの真っ暗闇に泣きそうになりましたが、翌朝に宿の周りを歩いてみて納得しました。森の中だから暗くて当然ですね。笑
我が宿(Hotel Bellvue)から5分ほど歩いたところにバス停があり、その近くのインフォメーションセンターでチケット(110kn)を購入しました。 なお、画像下側のULAZ ENTRANCE②という所が入口②で、私はここから乗りました。
※1kn(クナ)≒15円
結構混んでいましたが、朝8時頃ということですぐに乗れました。
バスはSt4という所で停まりました。プランクトンの関係で午前中は入り口①から反時計回りに廻るコースがオススメだとどこかに書いてありましたが、そこまでこだわりのない私はここで降りました。笑
全てを見ようとすると1週間くらいの滞在を要してしまうほど広く、園内のハイキングコースもさまざまあります。私と同じバスに乗っていた日本人ファミリーが「昨日このコースで廻ったから、今日はこのコースで歩くよ!」と言っているのが聞こえたので、ハイキングが好きな人は長期滞在をする場所なのでしょうね。確かに、のどかで空気もおいしく、景色も美しいので、自然とハイキングが好きな方には最適の観光地なのかもしれません。
普段は超インドア派の私も、8:40にハイキングを開始。入り口①を目指します。木でできた道がいい感じです。
写真を一気に載せてしまいましたが、小川や湖、滝などが次々と現れます。水がとても澄んでいて、中を泳いでいる魚がはっきりと見えます。自然にはさほど興味がない私でも、「綺麗だなぁ…」と心が洗われます。
花も咲いていました。 普段は仕事などに追われ、立ち止まって野に咲く花を見る余裕がないですが、たまにはこうやって自然と向き合う旅もいいですね。
湖の色はそれぞれ異なります。時間帯にもよるのかもしれませんが、セルリアンブルーに輝く湖にも出会えました。自然が織りなす色に思わずうっとり。
水面が完全なる鏡になっていた湖もありました。
公園内は遊覧船やバスも走っているので、全て徒歩で廻る必要はありません。私は利用しませんでしたが、遊覧船は長蛇の列をなしていました。気温30℃越えの夏場の観光シーズンには、遊覧船を待つのも一苦労のように思えます…。
ちなみに、遊覧船乗り場(P2)の近くの湖はあまりにも澄んでいて、魚がこれだけはっきりと見えました! !
一番有名な滝が、このヴェリキ・スラップ(Veliki slap)です。そのまま見ても十分迫力があるのですが、階段を上って高台から見ると滝底が見えて、よりダイナミックに見えました。
12:00頃、ハイキング終了。写真を撮りながら、のんびり歩いて3時間半くらいかかりました。
入り口①から入り口②までの無料シャトルバスに乗り、宿に荷物を取りに行きました。入り口②と①からザグレブ行きのバスが出ており、進行方向からして入り口②の方が先に停まるので、比較的バスの席が空いているとのこと。12:50発のバスに乗るために急いで準備をして、12:40くらいから待っていました。
しかし、待てど暮らせどバスが来ません。中には、ヒッチハイクを試みている人も…。そして、13:30頃にようやくバスがやって来ました。中は結構混んでいましたが、運よく座れました。(75kn)
ザグレブのバスターミナルに15:40頃到着したので、ザグレブ駅までトラムで移動し、駅でスーツケースをコインロッカーから取り出し(重いのでプリトヴィッツェには持って行きませんでした)、電車のチケットを買いました。本当はザグレブ16:00発の電車を狙っていましたが、一本見送って18:14発の電車でスロヴェニアの首都のリュブリャーナに向かいました。(101.85kn)
スロヴェニアに向かった理由は、ユリアンアルプスの絶景を見るため。しかし、ツアーに置いて行かれ、散々な目に遭いました…。気になる方は↓をご覧ください。笑
#080 真夜中にプリトヴィッツェに到着してみた。 (2011.8)
先にこれだけは言わせて下さい。深夜2時半頃にプリトヴィッツェに到着すると、真っ暗で本当に本当に怖いのでやめましょう。
(私も好きで真夜中に着いたわけではないのですが…。)
プリトヴィッツェ国立公園は、クロアチアを代表する観光地であり、1979年に世界遺産に登録されています。紺碧色に輝く湖群がとにかく美しくて、マイナスイオンを感じながらのハイキングがとても気持ち良い場所です。
首都ザグレブからバスで2~3時間で到着できることもあり、日帰り旅行も可能ですが、私は一泊しました。旅程としてはロヴィニ(Rovinj)→ザグレブ(Zagreb)→プリトヴィッツェ(Plitvice)をバスで乗り継ぎました。前回も書きましたが、クロアチアのバスは首都発着が基本なので、ロヴィニ→プリトヴィッツェの直行便がないのです。
ロヴィニはイストラ半島の西岸にある港町です。ポルトガルのポルト歴史地区に似た、オレンジ屋根群が美しい街です。ロヴィニからフェリーでヴェネツィアに行けるので、現地で予約をしようとしたらまさかの満席で行けませんでした。
色々な旅行会社を当たってみましたが、結局取れなかったので、フィッシュピクニックという日帰りツアーに申し込んだらアジア人は私一人で超アウェイ状態。しかもみんな複数参加ばかりなので、一人でぼーっとしながら過ごしていたのですが、船内でジプシー・キングス(Gipsy Kings)のボラーレ(volare)が流れたら、みんながノリノリで踊り始めました。私はもちろん傍観していたのですが、おじさん(たぶんイタリア人)に「お前も参加しろよ!」と言われ、肩をもたされ、船内を長蛇の汽車ぽっぽで廻ったことがロヴィニでの一番の思い出です。帰国後に「KIRIN淡麗生」のCMが流れる度に、あの長い汽車ぽっぽの光景が脳内再生しました。笑
あと、そのツアー中に船内から見た光景も衝撃的でした。岸壁にあったヌーディストビーチで、全裸の老若男女がいっぱいくつろいでいたのです。シドニーのボンダイビーチにもトップレスギャルがたくさんいましたが、ガチのヌーディストビーチはチン百景だということを知り、また一つ賢くなりました。笑
港町だけあって、海鮮類は新鮮でおいしかったです。フィッシュピクニックでは、盛り付けこそ雑(日本人として、魚の向きが気になる…。笑)ですが、取れたての魚を焼いて出してくれました。街中では、大好物のスキャンピ(手長エビ)を、殻の剥きすぎで指が痛くなるまで食べまくりました。笑
ロヴィニに2泊してからプリトヴィッツェに向かうために首都にバスで行きました。が、火災と自然渋滞により到着が1時間半くらい遅れました。
そのため、事前におさえておいたザグレブ16:00発のバスに乗り遅れました。次の便はなんと23:30発。とりあえず、チケットを取り直し(95kn)、プリトヴィッツェの宿に到着が遅れる旨を電話しておきました。
バスターミナル周辺で7時間半も時間をつぶすのも何なので、荷物を預けようとコインロッカーに行ったら、知っている顔が。フヴァル島からの帰りのフェリーで少し話をした日本人のK君でした。彼も私と同じ位の時間にバスに乗る予定で時間を持て余しているようなので、夕食を一緒に食べたりバスターミナルで色々話したりして過ごしました。
この時K君から聞いたインドの旅話が、私をこの4か月後にインドに導いてくれた気がします。今思えば、このクロアチア旅行で予定が狂った時に出会った2人からインド話を聞いたことがきっかけで、私はインドを旅行し、インドに魅せられました。何だかんだでトラブルがいい縁を作ってくれた気がします。そう思うと、トラブルも悪いだけのものではないと前向きに思えます。
K君は私の出発の少し前にウクライナに行ってしまったので、プリトヴィッツェには一人で向かいました。直行便ではなく、Jenera行きのバスなので運転手に「プリトヴィッツェ」と行き先を告げてから乗りました。23:30の定刻通りにバスは出発しました。乗客は他にも何人かいたので、プリトヴィッツェで降りる人は他にもいるだろうと思ってました。
席を倒してウトウトしていたら、「プリトヴィッツェ!!」と言われたので降りる準備をすると、降りたのは私一人だけ…。
しかも、バスが出発すると、一気に辺りが真っ暗になりました。まさに、街灯一つすらない車道に一人ポツンと降ろされました。あまりにも真っ暗すぎて、宿がどこにあるのかもわかりません。
軽くパニックになり、独り言で「怖い!」「どうしたらいいんだろう?」とか無意識に発してもだーれもいない。更に、明かり代わりになる携帯電話は旅行初日に紛失@ボスニアヘルツェゴビナ。
とりあえず車道を少しだけ戻ると、車道から逸れた細い道の先に街灯らしき明かりが見えました。それを頼りに向かってみると、ホテルの表示が。そして、それが私の予約していた宿でした。
深夜3時ごろ無事にチェックイン。そのままベッドに倒れこみ、爆睡しました。そして、4時間後の7:00には起床し、国立公園散策に向かうのでした。
大事なことなので2回言います。深夜にプリトヴィッツェ着のバスには絶対に乗らないように!笑